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やっと、本当にやっと、火災報知器を買ってきた。
もう5年位前だろうか、一般家庭にも火災報知器を設置することが法律で決められたのは。その後に消防署の人が何度も巡回してきて設置するように勧告されていたのに、なかなか重い腰が上がらず、延ばし延ばしになっていたもの。一昨日、やっと重い腰を上げて、価格ドットコムで最安値の報知器を調べて注文したという次第。今日、それが届いたってわけだ。 消防署のマニュアルによると、寝室と階段部分に設置する必要があるそうで、我家では予備の部屋も含めて合計5個ということになる。素人から見ると不思議なことに、台所には設置が義務付けられていないのだそうだ。なんか一番火の気に近いような気がするのだが、どういうことなのだろう。煙に感知するものだから、台所だと調理のたびに警報が鳴りっぱなしになるのかなぁ、などとも思ってみたり。 また、階段に付けるというのは判るにしても、寝室など警報が鳴るころにはもう煙に巻かれてお陀仏に近いような気もするが、さてどういうことなのだろう。まあ法律で決めるくらいだから、きちんとした理由はあるのに違いなく、ここは信じるほかないんだな。もっとも、信用できなければ、台所には熱反応式の警報器を付けるという手もあるようだが、そこまではとも思う。まあ所詮は念には念を入れてということだろう。何か過剰な基準のような気もしないではないが・・・・。それはそうと、火災報知器よりも消火器を備えておくほうが重要ではないだろうか。せっかく報知器をつけるのならば消火器も買って置かなくてはならないねぇ・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今日は昔の仲間と一杯。例の「大和の湯」新年会だ。最近ずいぶん温泉に浸かっていないので、人工とはいえ、温泉も久しぶり。いい気持ちになったところで牡蠣鍋をつつきながらビールで乾杯。このグループではこの方式が定着してしまったね。
NHKの大河ドラマ 「平清盛」。
正直、面白くない。やたら顔をアップにしてシリアスに迫るのかと思えば、清盛を現代っ子のような節操のない騒がしい男に仕立てたり・・・・。何を考えとるんじゃ、NHKは、などと思ったりする。初回と第二回を観て、今日も一応テレビのスイッチは入れて見たものの、途中で切ってしまった。実につまらん。 兵庫県知事が数回にわたって色々と物議を醸しているようだが、あれは本気の話なのか、それとも話題づくりを狙って清盛人気を盛り上げようとしたものなのか。広島県知事まで瀬戸内海の海の色について反論してみたり。まあ清盛ご当地の兵庫やら広島、香川に山口など、このNHKの大河ドラマには期待が大きいのだろう。人気が出れば出るほど、平家縁の地への観光客が来てくれることになるからだ。特に当地の広島など、厳島神社を抱えているためもあって、なにやらフィーバーしていると云っても過言ではないだろう。本屋には清盛本がずらりと並んでいるし、廿日市(宮島)、呉(音戸)など、観光客誘致に必死の様子が見える。この大河ドラマの視聴率は低迷しているようなのが気がかりなところだろう。我輩だって本当は期待していたのだが、このような人によって好き嫌いが分かれるようなドラマの作り方はよくないんじゃないのかねぇ。キャスティングだって、どこか軽い。重厚な感じがない。若者受けを狙ったような配役にはまったく馴染めないのだ(年寄りの繰言に過ぎないが)。話としても、清盛を白河法皇の子に決め付けたりして、わざわざ波乱万丈の人生だったごとく誇張して脚色している。ちょっとやりすぎだよ、これなんか。 とまあ、気に入らなければ見ないだけだが、このドラマによって清盛が安売りされるのが辛いところだな。二年前から「平家物語を歩く」と称して、平家縁の地を訪ね歩くことを目標にしていたのだが、道半ばにして、有象無象が押しかける一大軽薄観光地になってしまいそう。まだ一の谷合戦場、香川県の屋島には行っていないままこの大河ドラマに突入してしまった。もっと早く行くべきだったと後悔してしまうが、暫らくは行く気分にはならないねえ、残念なことだが。
久しぶりに自転車に乗る。娘が使っているちょいとハイカラな自転車。小ぶりだし、タイヤは極細で何と云っても重量の軽いのがいい。昨年、京都に折りたたみ自転車を持っては行ったものの、結局使わずじまいだったから、かれこれ自転車に乗るのも10年ぶりくらいになるかも知れない。
![]() 自転車というのは当然に人力車なわけで、問題は復路なんだな。なんせ我家は小高いところにある団地なので、往路は下ってゆけばいいのだが、復路になると坂道を登ってゆくことになる。そこそこくたびれてきた頃に、決定的な登りだから、いやはやドドッと疲れが出てくるのは当然と云えば当然。「行きはよいよい帰りは怖い」。途中からは押してあがったものの、グッタリもいいところ。八丁堀くらいまで歩くのは"Before Breakfast" になったといっていいが、こちらの自転車のほうが断然疲れるというのもおかしなことだねぇ。ま、久しぶりに自転車に乗ったわけだし、これまでお蔵入りさせていた筋肉を使ったからということかも知れないな。勿論、自転車に乗るのは身体を動かしてダイエットするという一環なのだが、こうしてほどよく身体を動かすと、おかげで飛び切り腹が減るのが困りもの。ここでぐっと我慢できるかどうかが勝負なんだけどなあ。
最近、コータローが凝っている遊びがある。沢山のオモチャの紙幣(裏は白)を裏返しにして、トランプの神経衰弱のように交互に一枚ずつめくって取り、できるだけ高額紙幣を集めて、合計の金額を競うというものだ。ここのところ毎日のように相手をさせられていると云えようか。不思議なもので、いくらオモチャとはいえ、ちょっとむきになったりしている。1万円、5千円、2千円に千円の札があるのだが、千円札だとがっかりし、1万円札だとおおいに喜ぶ、という有様。全部取り終った後、合計はいくらになったかと数えるのも、驚くほど素早い。よその子供がどうなのかは知らないが、なにか大人びた感じすらしてしまう。
こんな様子を見ていると、おいおい、金の亡者にならなければよいが、などと思ったりする。まだ6歳なのに金に計算高い人間になってしまうのではないか、などとも。将来、このコータローがどんな人間になるのか、まだ見当もつかないが、金に汚い人間だけにはなって欲しくないと思うのは当然のことだ。昔は、本阿弥光悦親子のように清貧に生きることが事実上可能だっただろうが、この時代ではやはりそれは難しい。だから現代においては、それなりの金を持つのは必要だし悪いことではないだろう。しかし、かつてのホリエモンのように小賢しい方法で金を稼ぐような人間であったり、いつも計算高い人間にはなってほしくない。あくまで汗を流して正当に金を稼ぐ人間であってほしい、などと思ってみたりする。もっとも、これも考えすぎの取り越し苦労の類か、あるいは爺馬鹿というべきものかも知れないが・・・・。そのうちこんなことに興味もなくして、ただの凡庸な子供になってしまうのがオチかも知れないし。なにはともあれ、子供の行動の一つ一つで一喜一憂、色々と考えてしまうのが、親(爺)馬鹿ちゃんりんというところだろうね。
今日の内田樹さんの講座で、広島経済大学の特別講座が終わった。10月初めの第1回から四ヶ月間、全14回のうち1回ほど欠席しただけで、よく通ったものと我ながら感心する。
この講座、なかなか面白かったというのが正直な感想と云える。色々な世界の人たちによる講話は新鮮だったし、刺激になった。勿論、つまらないと思う講師もいたが、人それぞれに感性や考えが違うことだから、それはそれで仕方のないこと。もともと学生相手の講座に潜り込ませてもらう趣旨なだけに、物足りないこともあったが、無料で参加させてもらう立場で文句を云うことでもない。実にありがたい講座だといえるだろう。週1回、決まった曜日の決まった時間に通学するというのも、何やらケジメみたいなものになったし、大学という雰囲気にこうして浸ってみるのも悪くない。これで最後というのが寂しいくらいだ。 振り返ってみれば、やはり一番印象的だったのは琵琶による平曲弾き語りの荒尾努さん。貴重な体験をさせてもらったと云えそうだ。そのほか印象的だったのは、浄土真宗の女性僧侶の川村妙慶さん、茶道上田宗箇流家元の上田宗冏 さん、詩人の米国アーサー・ビナードさんあたりだろうか。やはり形式的な話をする人に面白みはない。また四月から平成24年度の前期講座が始まるようなので、勿論申し込むつもりだ。昨日から始まった「西洋古版本」の講座といい、どうも最近、にわかに広島経済大学とご縁が深くなってきたが、それだけこの大学が社会に窓を開いているということの証しかも知れない。ありがたいことだね。
今日からまた、広島経済大学の講座が始まった。とは云っても今回のはカルチャー講座、テーマは「西洋古版本」、全6回だ。要するにこの大学が所蔵する西洋古版本をベースとして、講師を交えて話しあう? というものらしい。
以前、ひろしま美術館でこの大学の西洋古版本の展示があって行ってみたことがあるのだが、本当に凄い! 蔵書の数々。こんなものいったい何の目的で集めたものやら、などと思っていたものだが・・・・。今日はその主、広島経済大学の石田理事長が自ら収集することになったきっかけやら、現在どういう蔵書があるか、またどのような考えで収集しているかということの話。確かに初版の原書を当たることはそれなりに意味があることかも知れないが、ここまでくるとやはりとてつもない道楽ではないかと思える。丸善から持ち込まれて、数千万円もするという本をポンと購入するという度胸もすごいが、そのディープなポケットにも驚かされると云えようか。集めに集めて現在100冊を越えるほどで、金額にして何十億円というから、もう桁違いと云っていいだろう。そのような古書の所有名義が理事長なのか大学なのかは知らないが、これだけでも一財産あるということになる。ただ云えるのは、中には相場が上がっているものもあるようだから、考えようによっては財テクにもなっているのかも知れない。さて、今日の話は蔵書の概説のようなものだが、さすがにご本人も色々と勉強されているようで、中にトリビア的な話もチラホラ混じって面白い。次回以降はもっと深くなるかも知れない。今までまったく門外漢だったわけで、こういう世界を覗いてみるのも一興ではありそうだ。 受講者は15人くらいだが、どうも丸善など大学と縁の深い書籍関係者がかなりいた模様(半分以上か?)。義理? で参加しているのかどうか知らないが、何だかこういうのは感心しない話だねぇ。
神戸で「龍舞」を観てきた。この舞そのものは中国特有のものだろうが、「龍」自体は日本でも馴染みのものだ。今年は辰年だが、「龍」とはいったい何なんだろう。十二支に登場するのは12種の動物、中で唯一「龍」だけが架空の想像上の動物だ。なぜ「龍」という特殊なものが中に混じっているのだろう。・・・年賀状の大半に龍の絵が図案として使われているのを見ながら、ふと疑問がわいてきて、それ以来そのことが頭を離れない。
寺院には龍を描いた天井画が多い。南禅寺、妙心寺、東福寺、その他恐らく枚挙に暇がないほどその例は多いに違いない。また山門には龍の彫り物が施されているのが普通ともいえるほどだ。これはいったい何故なのだろう。龍と仏教、これにはどんな繋がりがあるのか。また、田舎に行くと今でも残っている土蔵だが、この切妻側の壁の上部にはほとんどの場合に「龍」の文字の飾りがある。数年前に金沢近郊で見たものは木彫り龍の彫刻のものすらあった。この「龍」はどういういわれがあるのだろうか。さらには明治維新後に新政府が初めて発行した金・銀・銅の貨幣(20円金貨~半銭銅貨)にはすべて龍の図案が施されていた。龍と日本、いったいこれはどういうことだったのだろう。・・・・などと考え出すと、キリがなくなるとでも云えようか。 まあどちらにせよ、中国から伝わってきて、それが日本の多神教と結びついて神聖なもの、一つの神の姿として信仰されてきたということなのだろうか、と思ってみたりする。おそらく元祖である中国以上に神格化されてきたのではなかろうか。おとぎ話でも龍は幸せを運ぶものとして描かれることが多いし、最近では漫画 「ドラゴンボール」でも神龍(シェンロン)が登場しているくらいだ。確かに、龍というのは何か神々しい姿をしているように思える。そこへゆくと西洋でいうところのドラゴンというのは、映画などに登場するものを見ると、悪の仲間でしか登場しないようだ。一神教の下では、動物といえども神格化することはありえないということなのだろう。恐竜のような姿に翼があったりして、見るからに品がない姿をしている。要は日本や中国でいう「龍」とはまったく別物というべきなのだろう。 同じく架空の動物では、獅子(唐獅子)の石像が神社の入口に阿吽の姿で二頭ほど座っていることが多いが、神社では龍ではなくて獅子なのはなぜか・・・・ということまで行き着く。何かすっきりと判らないのが悔しいが、こんなことを色々思ってみるのもなかなか面白いことだね。
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